フィロソフィー

みんなで活動することの意味

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オニモリの活動をはじめてから、僕らが生活の中で出くわす様々な出来事について、まずは自分の生活を中心にして、そこから地域のこと、さらにはもっと広い世界のことと常に連結させて考える癖がついた。そんななか、今日は三宅洋平さんがインスグラムに書いていた言葉に強く共感した。

何とかして他人にやらそうとする下卑た民衆根性がある限り、民主主義なんかうまくいくわけがない。

本当にそのとおりだと思う。かつての僕も含めて、嫌なことは顔の見えない誰かに任せて、まるで無かったことのような顔をして生きている人が多い。血まみれになって動物の身体を解体する人がいるのを忘れて「肉が食いたい」と言ったり、命の危険を冒して木を伐採する人がいるのを忘れて「2シーズン分の薪が欲しい」と言ったりする。

分業化の進んだ社会だから、何も全て自分でやる必要はないが、誰かにやらせているという感覚は決して忘れるべきではないと思う。なぜなら、この世界は常に「誰かからの贈り物」で繋がっているのだから。

「自己責任」という言葉は最近、人を見捨てるときや冷たく突き放すときにばかり使われるが、本当の意味での自己責任とは、何事も人任せにせず自分ごととして考え、リスクもベネフィットも受け入れて行動することだと思う。より多くの人が自分の生を、自分の食い扶持を、自分の在り方をきちんと認識して、そんな自分と同じような「他者」がこの世にはたくさんいるのだということを忘れずにいるべきだと思う。

それが出来たら、民主主義みたいな、絵に描いた餅みたいなものの話をしなくても済むかもしれない。そもそも民主主義なんて、奴隷制をもとに誕生したようなものだ。今だって誰かの犠牲のうえに成り立っている。誰かの尊厳を奪うことで成り立つような世界は少しも民主的でない。

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